2016年2月11日木曜日

タシケント事務所長として赴任した頃 1999年4月

1999年の4月にタシケントに赴任した。初めて空から見たタシケントの夜景は、予想外に大都会だった。この街は旧ソ連時代は4番目の大都市だった。赴任直後にEBRD総裁のタシケント訪問があり、カリモフ大統領との会見準備など緊張する日々が続いた。総裁のお供でチムール帝国の古都サマルカンドを訪問した。青いタイルの遺跡がきれいだった。

そうしてタシケントの生活が始まった。時々外国人社会の様々なパーティーに招かれたりすることと日々の仕事の他には、単調な毎日が続いた。ロンドンの本部と現地政府等との間でなかなか進まない仕事にいらいらするのは毎日のことだった。大変なのは一日中を家で過ごす妻の不満が募らない様にすることだった。

タシケントは砂漠の国の首都のイメージがあるが、実際には天山山脈のふもとのオアシス都市で、水が豊富で緑の多い美しい街だ。夏には45度を越す陽光のおかげで様々な花にあふれ、バザール(市場)に出まわるスイカ、メロン、トマトなどは日本では期待できない程すばらしい。借家の庭にサクランボや杏の実がなったり、色とりどりのバラの花を植えて庭仕事をするのは楽しかった。

タシケントは自然の恵みに加え、文化、教育の水準が非常に高い中央アジアの代表都市でもある。ウズベキスタンが世界地図のどこにあるかを知らない人が多くいる一方で、シルクロードの遺跡、サマルカンド、ブハラ、ヒバなど古都の歴史を井上靖の小説・紀行で読んだり、NHKのテレビ・ドキュメンタリーでみたりして一度旅して見たいと思っている人はたくさんいる。本部からの出張者の案内やら、職場の仲間との遠足などで何度となく足を運ぶことが出来たのは楽しかった。多くの大学があり、非常に高い水準の音楽・スポーツの指導者がいたのもありがたい。妻はピアノ、テニスのレッスンを楽しみ、私はロシア語と歌のレッスンを始めた。少しロシア語が理解できるようになってから熱中したのはロシア語でロシアのロマンス(歌曲)やナポリ民謡を歌うことだった。

生後1カ月半のウズベク犬を妻がタシケントの青空市(チジコフカ)で買って来たのは2001年の暮れだ。雑種のテリアらしき犬の兄弟の中で一番強そうでしっかりしていたのが兄のチビ太だった。生まれたばかりのチビ犬が一匹ではかわいそうだからと翌週末の青空市に行って、兄弟犬がまだ残っているか妻が見に行くと、ちょっと弱そうで小さな弟が売れ残っていたので家に連れて帰った。しっかりした兄に比べ弟のほうは頼りなげな様子で、オソ松と名付けた。こうしてちび太とマッツはわがやのメンバーになった。

タシケントにくる前のロンドンとウィーンの生活に比べると、物の乏しい、不便な生活だった。やがて妻は「いつになったら新しい国に行けるのかな。」と言うのが口癖になった。途上国の生活では家にいる時間が長くなり、家での時間の使い方として歌の楽しみを見つけたり、二人共にとって黙って不平不満を聞いてくれたり、遊んだりする愛犬の存在がなくてはならぬものになるという新しい発見があった。

仕事の面では2001年秋のアフガニスタン情勢の変化以来、隣接する中央アジア全体に対する世界的な関心が高まり、タシケント事務所を訪れる人の数もずいぶん増えた。その後の2003年5月のEBRDタシケント年次総会の準備、引き続いての対ウズベキスタンEBRDカントリー・ストラテジーのモニタリング(2004年4月記者発表)まで忙しい日々が続いた。しばらくすると静かな毎日に戻った。

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