2016年2月11日木曜日

キルギス共和国 ― 天山の麓、シルクロードの湖の国 2013年7月 「中央アジアと日本」連載

1997年の2月に出張で初めてこの国を訪れて、強く印象に残ったのは、雪の天山山脈の麓に広がるイシク・クル湖と、その周辺の草原に羊たちが群れをなす幻想的な光景だった。天山山脈の向こうは中国の新疆ウイグル自治区だ。この湖は三蔵法師の大唐西域記にも大熱池、大清池として出てくる。作家の井上靖氏が60年代に中央アジアを旅した頃は、外国人の訪問は許されず残念だと紀行に書いている。首都ビシュケクから山道を3時間のドライブで西岸にたどり着く。東岸までさらに2時間かかる大きな湖だ。北岸中央のチョルポン・アタ周辺の湖畔のホテルと別荘を合わせたリゾート施設は、夏はロシア、カザフスタンからの保養客でにぎわい、キルギス経済の重要な収入源である。

キルギスの農林業

キルギスの人口は560万人で中央アジア全体のおよそ10分の1である。人口の7割を占めるキルギス人、14%のウズベク人、8%のロシア人の他にドゥンガン人など中国系の人もいる。日本の半分ほどのキルギスの国土の9割は標高1500メートルを越す山岳地帯にあり、農地は国土の7%、森林は4%にすぎない。農林業がGDPに占める比率は25%だが、小規模農家が多く労働人口全体に占める割合は48%である。南部の山間地では限られた農耕地、灌漑用水、牧草地、販路確保をめぐって民族が対立する要因となってきた。キルギス政府は農産物加工業の振興に力を入れている。乳製品、乾燥果実、ジュース、ミネラル水の工場に最新技術を導入して品質・在庫管理とマーケティングのノウハウを学べば、近隣諸国への輸出が可能となる。

活発な商業活動

シルクロードの交差点であるビシュケクでは商業活動が盛んである。中国、トルコなどから輸入された衣料品、最新の家電、音響製品などが商店に並ぶ。国内消費のみならず、一部はカザフスタン、ロシアなどに輸出される。金を除くキルギスの輸出の50%はこの2国向けである。2010年にロシア、カザフスタン、ベラルーシの3国が関税ユニオンを結成すると、非加盟国に対してこれまで緩やかだった関税手続き・取締りが強化されたため、キルギスの輸出減につながった。この関税ユニオンはCIS諸国に対して低めの関税を課しているので、今後はキルギスにとって輸出増につながるとの見方もある。但し中国などを原産地とする製品のキルギスからの再輸出に高関税が課されれば、マイナスの影響を受ける。キルギス政府は関税ユニオンへの将来的な参加を検討している。

クムトー金山を中心とする鉱業

クムトー金山は、キルギスのGDPの12%を占め、輸出の3割を占める重要な産業である。キルギス語で「砂の網」の意味を持つこの金山はイシク・クル湖の南の山中に位置する。標高1600mの湖畔の町タムガからランド・クルーザーで2時間ほど鉱山道を上ると標高3600mのベース・キャンプに到着する。採掘場はさらに30分ほど上った標高4000mの高さにある。訪問に先立ち健康診断を受けるなど注意が必要だ。カナダのセンテラ社がカナダ政府、IFC、EBRDの融資を受けて金山を開発した。EBRDは1995年に鉱山に電力を供給する送電線プロジェクトでキルギス政府にも融資した。鉱山の操業は1997年に始まった。一定純度まで精錬された金はキルギス側が買い上げ、スイスに輸出されて再精錬される。ベース・キャンプの宿舎では常時千人以上が交代で勤務している。

世界金融危機以後のキルギス経済

キルギス経済は1995年から2004年までの平均成長率が4.1%(IMF統計)と、順調に市場経済への移行を達成してきた。この傾向は2005年の革命で一時停滞したが、2008年までほぼ順調に推移した。この年の秋に世界金融危機が起きるとキルギス経済も打撃を受けた。キルギス全体の半分を占めていたカザフ系銀行が撤退し始めた。ロシア、カザフスタンで働くキルギス出稼ぎ労働者(労働人口全体の2割程度)からの送金も減少した。農産加工品の輸出が伸び悩んだ。このため2009年の経済成長が 2.9%に鈍化した後、2010年の政変でマイナス成長(-0.5%)に転じた。こうして3回の大きな危機を経験したキルギス経済は、現在は復興の過程にある。2011年のGDPは6%と順調な回復を示したが、2012年には冬場の気象条件の悪化でクムトー金山の操業が影響を受け、GDPの伸びは再び鈍化した。金以外の経済活動の伸びは4%程度と順調な回復を示している。

2010年のキルギス政変の影響

この山間の国で2005年3月の革命、2010年4月の政変と大きな社会変動が春先に起きるのは、冬場の生活の厳しさを示すものだ。独立以来の課題である電力、道路などインフラ整備の遅れ、南の農村地帯と北の首都圏の格差拡大、不透明な行政運営により鬱積していた人々の不満が、世界経済危機の後、インフレの進行、出稼ぎ送金の減少、生活の逼迫によって加速した。2005年のチューリップ革命で政権を掌握したバキエフ大統領は、2007年12月の国会選挙を経て、2009年7月の大統領選挙で圧勝すると、権力の中枢を内閣から大統領府直轄の新設機関である中央開発・投資・技術革新庁(CADII)に移し、次男のマキシムを長官に任命した。懸案であったキルギス通信、配電会社など基幹産業の民営化が次々実施された。2010年早々にはAUBアグロ銀行が半官半民で設立された。「中央集権化により開発を推進し、弱く貧しいキルギスを変えよう」との新方針は順調なすべり出しと思われた。しかしこれらの入札案件を受注した地元企業のすべてがマキシム系であることが明らかになると、汚職と権力の濫用に対する国民の失望は大きく、2010年の政変の原因となった。

政変後の国民投票を経て、民主化を達成した新政権はビジネス環境の改善に力を入れている。主な課題は競争入札、ライセンス取得ルールの透明化、簡素化により投資環境を改善し、水力資源・天然資源開発に外資を導入することだ。民間資本とノウハウの導入は配電・熱供給・ガスなど公益事業の改革にも不可欠だ。旧政権化で信用が失墜した金融セクターに対する国民の信頼を取り戻すためには、キルギス国立銀行の政治からの独立性と透明性を高め、各民間銀行の資本を強化する必要がある。南部農村地帯の振興のためにはマイクロ・ファイナンスの持続的な発展も重要だ。新政権は汚職の機会を減らすために、規制対象となる許認可業務をそれまでの500件以上から220件に削減し、省庁の合併により公務員数も15%削減した。

EBRDによる投融資活動と技術支援

EBRDは市場経済への移行支援を専門とする国際機関として、対政府支援を行うIMF、世銀、アジア開銀、主要国の援助機関と協調しながらキルギスの経済発展を支援している。キルギスには22の商業銀行があるが、民間融資総額の対GDP比率は20%程度であり、経済活動は現金取引に頼っている。この比率はより発展した移行経済国では50%を越え、先進各国では100%を越える。EBRDはキルギス投融資銀行(KICB)、トルコ系のデミール銀行など外資導入を支援するとともに、主要なマイクロ金融会社に対しても融資を行ってきた。マイクロ融資総額の対GDP比率は8%であり、民間の融資額全体の1/3を占める。中央アジア、コーカサス、バルカン半島などマイクロ金融の活発な地域には山間地が多く、通常の商業銀行の営業活動が難しい。

EBRDはイシク・クル湖のリゾート施設、ホテル(ハイアット)、鉱業(クムトー金山)などへの外資導入を支援し、2000年代の半ばからは小口向け直接融資制度(DLF)を通じて、食品加工・飲料水、板ガラス、家具工場など地元企業を支援してきた。世界金融危機後は中小企業支援を拡大するため、地元通貨建て融資を開始した。EBRD企業成長プログラム(EGP)では、経験豊富な専門家が中規模企業の構造改革、生産性向上、省エネ対策などを指導している。最近の例ではスイスの技術による地元産チーズが評判の「デイリ―・スプリング(乳製品の泉)」社の経営改善・販路拡大に貢献した。日本人アドバイザーもEGPに参加している。ビジネス・アドバイザリー・サービス(BAS)プログラムは、地元のコンサルタントの育成・活用により小規模企業の財務管理、品質管理、ビジネスプランなどを指導している。公共部門では、オシュ・イスファナを結ぶ南部幹線道路の整備(世銀、欧州連合との協調融資)、首都ビシュケクの上水道整備(スイス政府との協調融資)などを支援した。

日本との経済交流・技術協力

キルギスには大使館・援助機関関係者とその家族、専門家、協力隊員など150人ほどの日本人が住んでいる。日本は米国、ドイツに次ぐ第三位の援助国(2010年)である。日本の技術協力ではバイオガス技術、道路維持管理、IT人材育成などが現地で高く評価されている。日本・キルギス双方の関係機関と民間企業の交流を強化し、貿易・投資振興を図るために2009年8月に日本キルギス投資環境整備ネットワークが設立された。これに先立ち同年2月にビシュケクで日本キルギス・ビジネス・フォーラムが開催され、日本側から35名のビジネス関係者が参加した。2011年10月には東京で在日キルギス人協会・EBRD共催・キルギス大使館後援でキルギス投資セミナーが開かれ、経済活動、人々と風景の写真、民族音楽が紹介され関心を集めた。

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