2016年2月11日木曜日

東横線の青春 国際機関に応募した頃

会社に勤めて10年が過ぎた初夏の頃、朝刊の片隅に「外務省アソシエート・エキスパート募集」の小さな広告を見つけた。日本政府が国際機関に2年間日本人を派遣するプログラムだ。発電用燃料油の価格交渉に明け暮れ、留学時代のアメリカの友人が送ってくれたペーパー・バックを読むのも東横線で綱島まで帰る深夜の電車の中だけという生活が続いていた。同じ時期に派遣された会社の同僚二人が、続けざまに会社を辞めたことにも影響を受けた。職場の人間関係もあったが、そういうことは枝葉にすぎない。会社で海外の燃料事情を調査し、商社や石油会社で外国に赴任した人々を見ていると、自分も外の世界を見てみたいという気持ちが強くなっていた。おそるおそる妻に自分の希望を打診してみると、当時外資系の雑誌編集部に勤めていて、夫に家計を頼る気持ちが希薄だった妻はあっけらかんとしていた。「やりたいことをやれば。自分の人生でしょう」と言う。

行政・公共政策専攻という大学院の経験を活かす方法を考えてもいた。終身雇用のシステムから飛び出すとしたら、専門性を高めていくしかない。外務省の募集は良いチャンスかも知れないと思った。夏に語学試験、秋の面接を経て11月に合格通知を受け取った。これから国際機関への応募プロセスが始まった。仕事が決まるまでは時間がかかった。外務省国際機関人事センターというところでガイダンスを受けた。具体的な応募先として国際連合工業開発機関(UNIDO)を選んだ。電力会社の燃料部で産油国事情、石油・ガス開発プロジェクトなどを調査してので、なじみがあるような気がした。国連への応募書類はとても煩雑で、応募ポストに関連した自分の専門分野について詳細に記入する形になっている。当時財政難で苦しんでいたUNIDOの実際の採用状況、財政状況について調べなかったので、赴任してから驚くことになった。応募の頃はなんとか採用してくれる機関を見つけるのに必死で、それ以上のことを考える余裕はなかった。

正月が明けると毎日どういうタイミングで会社を辞めようかと考えた。当時本店燃料部の主任だった。7月の定期異動で昭和54年入社組が本店の副長になる年だった。本店の管理職というのを一度経験してみたかったが、アソシエート・エキスパートの募集には年齢制限があったので最後のチャンスだった。迷ったあげく3月末になって6月いっぱいでの退職を申し出た。親には内緒だった。7月に入ると具体的な問題が出てきた。住んでいた社宅を9月に明け渡すので、次の転居先が必要になった。辞表を出すまで住む場所のことは考えていなかった。「夏頃にはUNIDOの赴任地が決まるだろう」と思い込んでいたからだ。可能性のある国としてリベリア、タンザニアなどを打診された。7月になって人事センターから呼び出された。「これまで応募した国の現場には「シニアすぎて」適当な空きポストがないというUNIDOの回答です。準備は白紙に戻ったと思ってください」と言われた。帰宅して事情を説明した。この日を境に、妻の態度は大きく変化することになる。

退職してひと月が経った。妻に薦められたのがハロー・ワークに通うことだった。「そのうち仕事は来るさ。当面は君の稼ぎで食べていくはずだったよね」とたずねてみた。「何でもいいから仕事を探してください。仕事が決まってないのに会社を辞めたのが誤りです。世間体もあるし、親に知れたら大変よ」と諭された。次の日から横浜のハロー・ワークに通った。これまで通りの給与を求職票に希望額として記入すると、係官はまじめに探す気があるのかという風にじろりとこちらをにらんだ。世の中の景気はそんなに良くなかった。

新聞の求人欄を頼りに新しい仕事を見つけた。都内のニュース配信会社の外電の翻訳だった。一日6時間勤務で夜勤もあったが時間はかなり自由だった。早朝の早番の時はハイヤーで出勤だった。ジャーナリストの卵になったみたいでわくわくした。仕事が終わると事務所ビルの地下にある食堂や酒場で職場の先輩たちと飲み交わす機会が増えた。シフト勤務で毎日の勤務時間が違うのが身体にこたえた。間もなく胃炎を起こした。試用期間の3か月が間もなく終わる11月になってUNIDO本部から採用の通知が届いた。湾岸戦争がいつ始まるかでニュース翻訳の仕事は忙しくなっていた。年末いっぱいまで働いて、1991年の年明け早々に日本を離れた。

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