中沢賢治
欧州復興開発銀行(EBRD)
1993年に電力事業担当のバンカーとしてEBRDに入行し、1999年から中央アジアのウズベキスタン、2004年からバルカン半島のマケドニア、コソボ、2007年から今年の夏までキルギス共和国で駐在事務所長として勤務した。EBRDの現地事務所で経験した中央アジアの事情とEBRDの最近の活動について以下の通り報告させていただく。
1.欧州復興開発銀行について
EBRDは旧ソ連圏の経済復興支援のために1991年4月に設立された国際金融機関である。資本金は現在300億ユーロ。61の加盟国と欧州連合(EU)、欧州投資銀行(EIB)を加えた63の株主を持つ。本部はロンドンにあり、旧ソ連、中・東欧地域、モンゴル、トルコなど29か国で活動している。本部と現地事務所合計で1540人の職員が働いている。発足以来、投融資の総件数は3100件、総額620億ユーロを越える。近年では毎年80億ユーロを超える投融資を行い、旧ソ連圏では最大の金融機関である。EBRDは地元の民間企業を育成し、同地域への外資進出を支援する。民間投資の前提としての基幹インフラ整備や民営化など公的セクターでの支援も行う。民間セクター支援比率は6割を超えることが義務づけられている。この比率は90年代の終わり頃までは6割を下回ることが多く、未達成の理由と今後の見通しについて理事会承認が必要だった。現在のEBRDの業務は民間支援に集中しており、2010年の実績では民間比率87%を達成した。
EBRDの投融資の決定に際しては、サウンド・バンキングの原則からみて優良案件であること、市場経済移行に向けての高い効果が期待できること、既存の諸機関と競合しないことについて厳しく審査が行われる。さらに個々の案件について環境への影響を評価し適切な対策をとることが承認の前提条件となる。EBRDが活動対象国の政府に融資を行う場合、国家保証が必要となるが、この場合調達コストであるロンドン銀行間レート(LIBOR)に手数料として1%を上乗せしたものが利率となる。EBRDが民間企業に融資する場合にはLIBORにプロジェクトのリスクに応じたプレミアムを上乗せしたものが利率となる。したがって民間の投資銀行がためらうような投資環境の国々ではEBRDの利率は非常に魅力的であるが、他方で無償ないしそれに近い条件で活動する援助機関と比べれば割高感がある。
2. 中央アジアとEBRD
l 中央アジアは中・東欧諸国のEU加盟後のEBRDを活性化させたETCイニシャティブの中心地域。
l 中央アジアは、定款に民主主義支援条項をもつ唯一の「移行支援銀行」であるEBRDのショー・ケース地域。
l 中央アジアはEBRDのマイクロ金融プログラム拡大の先進地域。
2-(1)
中央アジアと早期移行段階国(ETC)イニシャティブ
1991年の発足から90年代を通じてEBRDの活動は中・東欧地域が中心であり、EBRDはこれらの地域の国々のEU加盟準備銀行としての役割を果たした。1998年からいくつかの国々でEU加盟交渉が始まり、2004年から2007年までに10カ国がEU加盟を果たした。その後もこれらの国への支援継続が必要ならば、EU地域の開発銀行である欧州投資銀行(EIB)が行えばよいのではないか、その周辺国の支援についてはEIBとEBRDを合併すれば重複が省けるという議論が飛び出すに至った。2004年に地元の中小企業を直接支援するための「早期移行段階国(ETC)イニシャティブ」がスタートし、「旧ソ連圏の東方地域でもっと弾力的な活動をし、EBRDの事業を東方へシフトさせる」という新戦略が始まった。これはEU加盟の後のEBRDの役割が論じられた結果に他ならない。
ETCイニシャティブにより対象国においては、1)EBRDの最低取扱い額を通常の5-10 百万ユーロから50万ユーロまで引き下げる、2)財務諸表について国際会計基準による監査を要求する通常の条件を緩和する、3)ETC基金の創設によりETC案件の準備の一部を技術協力としてサポートするなどの弾力的な対応が可能となった。新しいETCの方針を最も歓迎し、活発化させたのがキルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンなど中央アジアの国々だ。ETCイニシャティブの開始された頃にはEBRD全体の8%にすぎなかったETC関連業務は2010年には全体の30%を占めるまでになった。同年の114件の業務総額は828 百万ユーロに達した。
2-(2)
中央アジアとEBRDの民主主義支援条項
EBRDはその設立合意書の第一条で「多党制民主主義と多元主義の原則を尊重し、適用する国々のみを支援する」という政治条項を持つ、唯一の開発金融機関である。同条項の適用により、ベラルース、トルクメニスタン、ウズベキスタンでは、EBRDは公的セクターに対する支援を行わず、民間事業のみを支援している。1999年2月にタシケント市内で4か所同時の爆破テロがあってからすぐの4月に私はタシケントに赴任した。この街はモスクワ、サンクトペテルブルグ、キエフに次ぐ旧ソ連第4番目の大都市だった。中央アジアの中で基礎的インフラが最もしっかりしており、教育水準も高い。中央アジアをめざす外国企業の多くにとってタシケントはベース・キャンプだった。またチムール帝国の古都サマルカンド、ブハラ、ヒバなどの主だったシルクロード関連の観光資源が集中している。この中央アジアの宝石ともいうべき国がその後さまざまな形で国際的な関心を集めることになる。私が赴任した当時のウズベキスタンの経済運営に関する中心的なテーマは、IMF8条国(為替の自由化)への移行に関して「それぞれの国で個別の事情に適した漸進的な改革が必要だ」とするウズベキスタン側と、「経済の自由化が遅れれば、外資の導入が遅れ、民間産業の成長が停滞する」という国際社会のアドバイスが対立していたことだった。その後2001年9月11日の同時多発テロ事件をきっかけにアフガニスタンをめぐり中央アジア情勢が緊張すると、隣接するウズベキスタンへの関心も強まり、訪れる人々の数も急増した。
こうした緊張と国際的な関心の高まりの中で、中央アジア初として注目された2003年のEBRDタシケント総会の準備がなされた。2002年に当時のルミエール総裁を含む数次のEBRDミッションに対して、ウズベキスタン側は「国際テロを目論むイスラム原理主義グループが仕事のない若年層の取り込みを図っているのは危険な事態である。これに対抗するためには中小企業の振興と経済発展が不可欠である」として国際社会からの支援の重要性を強調した。一方で、「人権問題に関する国連特別報告などに鑑みEBRD定款の第一条を適用すべき」としてタシケント総会を批判したNGOなどの主張がメディアに大きく取り上げられた。総会直前の4月にタシケントで爆破物が発見されるという事件が起き、開催地変更もやむなしとの議論があったが、ルミエール総裁は「EBRDタシケント総会は政策対話の継続のために必要である」という立場を貫いた。この時に提唱されたエンゲージメントの考え方はその後も継続されている。その後2010年5月にアジア開発銀行の年次総会がタシケントで開催されたのも、国際社会によるエンゲージメントに他ならない。
2-(3)
中央アジアとマイクロ金融プログラムの拡大
中央アジア、とりわけキルギス共和国、タジキスタンは世界のマイクロ金融の先進国である。EBRDのマイクロ金融プログラムでの融資額の平均はおよそ3千ドルである。NGOなどが行うさらに小口なものもあるが、EBRDが支援しているのはマイクロ金融会社、さらにはマイクロ金融専門銀行として事業継続が可能であるものが対象となる。これらマイクロ金融の先進国に共通なのは、山間地が多く通常の商業銀行の支店を設置し、営業することが難しいことだ。これらの国々の商業銀行の総融資額がGDPに占める割合は10-15%であり、通常の銀行業務が未発達なのが特徴である。この比率はEBRD地域のより発展した国々では50%を越え、西側の先進各国では100%を越えている。山間の農村地や、都市部の青空市場で商売をする人たちの運転資金を調達を可能にするためにマイクロ金融が活躍している。キルギス共和国の場合には商業融資のおよそ3割をマイクロ金融が占めている。担保に替えてグループでの信用保証で融資が受けられるのも特徴の一つである。小口のマイクロ金融会社は、一般市民から預金を集めることが許されていないため、主として外国のマイクロ金融支援機関から外貨で借入を行い、その為替リスクをヘッジし、顧客の分散している地域で顧客訪問・モニタリングを行っている。これらによるコスト高をカバーするため、もっとも一般的な3か月程度の借り入れの利子は年利ベースで30%を越えてしまう。これではマイクロ金融を利用するのは短期の借り入れが中心にならざるを得ない。預金者保護のための適切な規制を整備した上での国内預金の取り入れ、為替リスクのヘッジ・コストの低減策、マイクロ金融各社の体質強化、農業金融システムとの連携、適切な競争の導入など政策的な課題は多い。
バキエフ政権が2009年12月にAUBアグロ銀行を設立したのはマイクロ金融事業の私物化を狙ったものと思われる。「EBRDなど外国諸機関からの支援にも拘わらず営利に走るマイクロ金融機関から、農民を守るために新マイクロ銀行を立ち上げた」という政権側の宣伝に対して、「マイクロ金融システムのコスト高の構造改善に取り組むことなしに、助成金を使って一時しのぎをしたところで事業の発展はない」とするEBRDの立場が真っ向から対立した様子は、2010年2月のEBRD新ストラテジー・ミッションをめぐる中心課題の一つとして地元のメディアで報道された。地元のマイクロ金融各社へのさまざまな介入 (スタッフの引き抜き、金利の引き下げ指示、AUBアグロ銀行との提携命令) は年明けから4月の政変まで執拗に続いた。AUBアグロ銀行が独力では機能できなかったことで、助成金をつぎ込んで「マイクロ金融の仕組み」だけを作っても、それを運用するノウハウがなければマイクロ金融は機能しないことが明らかになった。
3. 2010年4月のキルギス政変前夜の事情
2005年のチューリップ革命により政権を掌握したバキエフ大統領は、不安定な政権運営に苦心していたが、2007年12月の国会選挙の勝利に続き、2009年7月の大統領選挙で圧勝すると11月に入って行政府の大改造を行った。これにより権力の中枢を総理大臣の統括する内閣から新設の大統領府直轄機関である中央開発・投資・技術革新庁(CADII)に移し、次男のマキシムをその長官に任命した。「弱く貧しいキルギス」を中央集権化し、開発を推進するのが狙いとされた。マキシムの率いるCADIIに対する、一般の見方は当初好意的だった。長年の懸案でありながら進まなかったキルギス・テレコム、キルギス北配電など基幹産業の民営化が次々実施された。また2010年2月にはAUBアグロ銀行という国策銀行が半官半民(キルギス開発基金が50%出資、残り50%がマキシム系のAUB銀行)で設立された。これらの新入札案件を落札したコンソーシアムを構成する地元キルギス企業のすべてがマキシム系であることがやがて明らかになると、CADIIを批判する野党勢力の勢いは増していった。
当時の政権による経済運営の私物化の動きに対しては、2月のマイクロ金融をめぐるEBRDミッションと当局との対立と、3月のIMFによる財政支援プログラム棚上げが国際社会の主な対応であった (2010年4月のキルギス政変前後の事情については、ビシュケクで見聞した内容を別添の「2010年5月キルギス情勢報告」にまとめたので参照していただきたい)。 IMFは2008年12月に金融危機後の対策として1億ドルに及ぶ財政支援プログラムを約束し、数次にわたるレビュー・ミッションを経て、2010年3月にはその実施が理事会で承認される見込みとなっていた。3月に入るとイタリアの司法当局がイタリア・テレコムの入札にからむ不正疑惑でMGNグループの代表に対して逮捕状を出した。MGNグループは国家機関であるキルギス開発基金の財務アドバイザーである。MGNグループのスキャンダルが報道されると、IMFは直ちにプログラムの実施を棚上げした。モスクワ発の報道でマキシムの盟友であるアリセーエフCADII次官についても同種の弾劾記事が流れた。以前から政府が圧力をかけてキルギス国内の優良企業の株を安くマキシム・グループに譲渡させたケースなどが囁かれていたが、政府高官を名指しした外国報道によってバキエフ政権に対する人々の不信感は決定的なものとなった。
4. 北アフリカ・中東へのEBRD地域の拡大と今後の展望
2008年9月に国際金融危機が発生すると、民間セクターとの強力な連携というEBRDの特殊性が再認識された。EBRDは発足以来の支援を通じて、西側の銀行と旧ソ連圏の中央銀行・地元銀行の双方に強いネットワークを持っている。 国際的な金融不安が起きると、EBRDが卒業し始めていた東欧地域も含めて、圧倒的な機動力をもって動揺する金融セクターへのテコ入れを行った。さらに手じまいを始めた西側の銀行に代わって旧ソ連地域の地場銀行、企業への融資を継続するという形でその存在感を示した。2011年の春にアラブ諸国で民衆の蜂起が続くと以下のような形でEBRDの関与を求める声が強まった。
l 欧州諸国首脳理事会(the
European Council of Heads of State)は3月25日の声明で、EBRDの活動地域の拡大を検討するよう要請。
l オバマ米大統領は5月19日、EBRDが欧州地域で行った民主化移行と経済改革への支援を中東および北アフリカに対しても供与するよう要請。
l EBRDは5月のアスタナ年次総会で満場一致でEBRD 活動地域拡大の可能性に関する決議を採択。
l 5月末にドーヴィルで開かれたG8首脳会議は「アラブ蜂起に関する決議」の中で、EBRDの「適切な地域的拡大」を要請。
アフリカ支援をリードするアフリカ開銀は、基幹インフラの整備や貧困対策を主活動としている。アフリカ地域における先進地域である北アフリカ、アラブ諸国の経済復興支援にあたっては、民間セクター支援において企業ガバナンスを重視するEBRDのビジネスモデルを適用する必要があり、この点でアフリカ開銀との重複はない。現在、EBRDのエジプト、モロッコ、チュニジア、ヨルダンなどへの支援に向けての準備作業が進められている。
EBRDの南方である北アフリカ・アラブ諸国への地域拡大は、EBRDの新しい時代の到来を示すものだ。93年以来、職員数の増加を最小限にとどめてきたこの国際機関の組織をどう拡大させるかという議論にもつながる。EBRD事務局としては新たに現地通貨による融資プログラムを打ち出し、新設のイスタンブール事務所に東方支援の中核となるべきチームを置くなど、機動力を高めることで新しい事態に対応しようとしている。こうした新たな取り組みによりEBRDの対中央アジア支援もいっそう強まることが期待される。私は本年12月からはロンドン本部のTAMBAS局でEBRDの技術協力を担当する予定となっている。設立後20年を経て新しい局面を迎えたEBRDで、現地事務所の経験を活かしながら、EBRDの技術協力業務と投融資業務との連携強化をはかることが今後の課題となる。
0 件のコメント:
コメントを投稿