ウィーンに本部のあるUNIDOは開発途上国の工業化促進のために技術援助を行う国連専門機関である。わたしが所属した環境調整ユニットは環境プログラムの実施に向けて、内外の関係部局を調整すると共に、1991年10月にコペンハーゲンで開かれた「環境と調和し持続可能な工業開発(ESID)のための国際会議」を準備する事務局だった。デンマーク政府から派遣されたニールセン大使と直属の上司であるウィリアムズ博士を補佐し、さまざまな準備会合の議事録をまとめることなどが仕事だった。このESID会議は翌年6月にリオデジャネイロで開かれたアース・サミットの準備会議としての性格を持つものだった。
1992年6月3日から2週間にわたり、世界180数か国の代表を集めてリオデジャネイロで開かれた「環境と開発に関する国連会議(UNCED/アース・サミット)に参加できたのは幸運だった。アース・サミットは1972年にストックホルムで開かれた国連人間環境会議の20周年の記念イベントでもあった。1987年にノルウエーのブルントラント首相が発表した「われら共通の未来(Our Common Future)」という報告がある。アース・サミットは「持続可能な開発」の概念を検証し、様々な分野に応用拡大を図ることを目的としていた。
6月3日から11日まで各専門機関の事務方による折衝が行われた。12日から2日間にわたる各国の首脳会合が開かれて「環境と開発に関するリオデジャネイロ宣言」「森林の管理・保全と持続可能な開発に関する原則」「アジェンダ21」などが採択された。「2000年までに環境ODAをGNPの0.7%に引き上げる」などの財政面の手当てについては、各国の努力目標にとどまる内容となったため、環境NGOからは失望の声が上がった。UNIDOのシアソン事務局長は会議の結果を「水の半分入ったコップ」と形容している。6月11日の午前6時まで徹夜で事務方の準備委員たちが採択されるべき文書の推敲をめぐって議論を続ける有様を目の当りにしたのことが強く印象に残った。
この時に会場で大来佐武郎先生や緒方貞子先生に新米の国連機関職員としてご挨拶させていただいた。ウィーンに戻ってから大来先生にアース・サミットの出張報告を送った。とても丁寧な返事をいただいた。その後、縁があって大来先生の設立された国際開発研究者協会(SRID)の会員として活動している。アース・サミットは日本へも報道された。当時の宮沢首相は国会会期中で東京を離れることができず、サミットへはビデオを送って代表演説を行った。この是非を巡って様々な報道が流れていたのでわたしも興味を持ち、その演説を流している日本のデスクで演説を聞いていた。宮沢スピーチに聞き入っているわたしの様子がNHKの朝のニュースの時間に流れた。会社の元同僚やら、知り合いの商社の皆さんやら、親せきたちがテレビを見たと言って連絡をもらった。懐かしい思い出だ。
アソシエート・エキスパートというのは日本政府の拠出による期間限定の人的支援プロジェクトである。そのプロジェクト期間終了後の恒久任用については、当該専門機関の空きポスト状況と財政状況に左右されるので予測しがたい面がある。UNIDOのように国連開発計画(UNDP)のプロジェクトを実施する機関としての性格をもつ組織は軒並みリストラを推進していたため、UNIDOでの恒久任用への切り替えの可能性は見込み薄だった。2年目の1992年になると様々な国際機関への就職活動に追われていたのが少し残念だ。
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