2016年2月11日木曜日

EBRDタシケント年次総会 2003年5月

1999年の4月に赴任した頃のタシケントは中央アジアの要として、いっそうの発展を期待される大都市だった。この街は旧ソ連時代モスクワ、サンクト・ペテルブルグ、キエフに次ぐ4番目の都市で、中央アジアの中では経済の基礎的インフラがしっかりしている。90年代後半からIMF8条国(為替の自由化)への移行をめぐって、同国が孤立主義的な経済政策をとっていたことが懸念され始めてはいたが、それでも中央アジアをめざす外国企業の多くはタシケントに進出していた。2001年9月11日の同時多発テロ事件をきっかけにアフガニスタンをめぐる情勢が緊張すると、中央アジアへの関心は高まり、隣接するウズベキスタンを訪れる人々の数も急増した。このような緊張した雰囲気の中で、中央アジア初として注目された2003年のEBRDタシケント総会の準備が進んでいた。

第4代のルミエール総裁(仏、2000-2008)とは、中央アジア初の国際金融機関年次総会として注目されたタシケント総会の準備から始まり、現地事務所長として話し合う機会も多かったので印象が強い。ルミエール総裁の在任中に地元の中小企業を直接支援するための移行の早期段階国(ETC)イニシャティブがスタートし、「旧ソ連圏東方の後進地域で弾力的な活動をすべき」というEBRDの新戦略が始まっている。EBRDの技術協力活動が高く評価されるようになったのも、ETCイニシャティブが推進されたことと関連している。

2002年に当時のルミエール総裁を含む数次の幹部訪問に対して、カリモフ大統領は「国際テロを目論むイスラム原理主義グループはが仕事のない若年層の取り込みを図っているのは危険な事態である。これに対抗するために経済発展と中小企業の振興が不可欠であり、力を貸してほしい」と強調した。一方で、さまざまな国際NGOが「人権が十分に擁護されていない国の公式宣伝を許すべきでない」としてタシケント開催を批判したことから、EBRDがその定款に民主主義国支援条項を持つことがメディアに大きく取り上げられた。総会直前の4月にもタシケントで爆弾未遂騒ぎが起きたこともあり、急きょ場所の変更もやむを得ないとの議論もあったが、ルミエール総裁は「EBRDタシケント総会は人権を含む政策対話を継続に必要である」として、理事会を説得した。この時に提唱された「エンゲージメント」の考え方は今も継続されている。

EBRDはその設立合意書の第一条で「多党制民主主義と多元主義の原則を尊重し、適用する国々のみを支援する」という政治条項を持つ、唯一の開発金融機関だ。同条項の適用により、ベラルース、トルクメニスタン、ウズベキスタンでは、EBRDは政府に対する支援を行わず、民間のプロジェクトのみを支援している。その後2005年のアンディジャン事件などを経て現在に至るも、関係の進展はない。為替の規制などにより、民間企業の活動が制約されていることがEBRDにとっては主要な懸念材料となっている。この中央アジアの宝石ともいうべき国との関係が2003年の総会の帰結をめぐってしこりを残して以来、さび付いたままなのは残念なことだ。

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