4月7日水曜日の大統領官邸前での流血騒ぎの後で一晩は自宅で不安な夜を過ごした。同日夜、大統領は出身地の南部ジャララバードに飛行機で逃れた。同じ日、事実上後継者として権勢をふるい始めていた大統領の次男マキシムは、外相、蔵相、中央開発・投資・技術革新庁(CADII)次官二人などを含む政府ミッションを率いて訪米中だった。米国側と世銀・IMFが予定の会合をキャンセルすると、一行はジェット機でドバイに飛び、その後ラトビアに逃げた。8日の木曜日に筆者の住む地区にデモ隊が押しかけたときには国連チームから緊急連絡が入り、妻を家から脱出させることができた。その夜から知人宅に避難した。旧政府高官宅、彼らの持ち物であるレストラン(ダ・ヴィンチ)、検察総庁、税務庁などが焼かれた。妻は出張者数名とともに10日土曜日にロンドンに避難した。街の様子が落ちつくのを待って12日の夜から自宅に戻った。ジャララバードではまだ千人以上のバキエフ支持者がいたため、南北各地の勢力による内乱に発展かと懸念されたが、南部最大の街オシュでは反対派に囲まれ、壇上に上り演説することも阻止され、バキエフの巻き返しはならなかった。15日夜9時を過ぎてバキエフが軍用機でジャララバードを発ち、西部国境沿いのカザクスタンの街タラスに到着した。翌16日にバキエフが書簡で辞任を表明し、事態は一段落したが、動乱の80名以上の犠牲者をしのぶ5月17日の40日忌を前に、一時的ながら南部の事態が再び流動化した。
今回の動乱の中で印象的だったのは政権に抗議するデモ隊の一部が、自らの正統性を示すものとしてキルギスの国民的作家として旧ソ連で名高いチンギス・アイトマトフの写真を胸に行進していたことだ。土曜日4月10日に執り行われた国葬のあと、ビシュケク出身の犠牲者は市郊外の丘陵にある墓地に埋葬された。この場所はキルギスの英雄が葬られる聖地であり、アイトマトフの墓もここにある。2005年の革命の旗手だったバキエフの政権がなぜたった5年で打倒されたのか、政変前夜に何が起きていたのかを振り返り、今後の行方を探ってみたい。
政変の前夜 ― 世界金融危機の影響と電力事情
今回の動乱による犠牲者の8割近くは地方からビシュケクに仕事を求めて出てきていた失業者など、政府の経済運営に不満を募らせた人々だった。山間の小国キルギスは2008年秋以降の世界的な金融危機の影響を受けた。キルギスのおよそ半分を占めるカザク系銀行から親銀行が資金を引き上げ始めた。ロシア、カザクからのキルギス出稼ぎ労働者の送金が縮小し始めた。農産加工品の輸出が伸び悩み始めた。需要の9割を水力発電に頼るこの国では、長い間、電気は天の恵みであり、電気料金も安かった。2008年になって山の貯水池の水位が極端に低下すると、政府は地球温暖化の影響を強調したが、降雨が少なかったこと以上に、当局者の手によって、不正な利得を目的として隣国に大規模な売電がなされたことが真の理由ではないかと専門家筋は見ていた。その一方で隣国ウズベキスタンが国際的な石油価格の高騰に連動して、キルギスの冬場に不可欠な天然ガスの価格を引き上げようとしたことから電力危機が始まった。キルギスは冬場の発電に備えて貯水池からの放水を抑えるため2008年8月後半から計画停電に踏み切った。これは下流国の農業に影響を与えるので深刻な事態だ。キルギスの産業活動と市民生活にも大きな影響が出た。冬の厳しいキルギスでは暖房に費用がかかるため、春先は生活が厳しい。また金融危機の後、出稼ぎに行った働き手からの送金も減少した。こうした状況のもとで2010年初めに実施された電気ガスなど公共料金の値上げは、各地の人々を決起させる直接の引き金となった。
政変の前夜 - 2009年11月以後の行政府の私物化
2005年のチューリップ革命により政権を掌握したバキエフ大統領は、不安定な政権運営の中で連立各派の調整に苦心してきたが、2007年12月の国会選挙の勝利に続き、2009年7月の大統領選挙で圧勝すると11月に入って行政府の大改造を行った。これにより権力の中枢を総理大臣の統括する内閣から新設の大統領府直轄機関である中央開発・投資・技術革新庁(CADII)に移し、次男のマキシムをその長官に任命した。「弱く貧しいキルギス」を中央集権化し、開発を推進するのが狙いとされた。マキシムは同窓のエリセーエフやウセノフ新総理の息子など身内と側近をCADIIの高官に任命した。さらに2008年末に設立されながら、CADII設立までその活動目的が不明瞭だったキルギス開発基金(KDF)の財務顧問としてMGNグループが任命された。MGNグループは資本金ではキルギス最大のアジア・ユニバーサル銀行(AUB)の主要株主である。2006年にロシア中央銀行は資金洗浄の疑いありとしてAUBに灰色銀行としての烙印を押した。2005年の革命後の混乱に乗じてアカエフ元大統領がらみの資産を入手したグループがその資金を洗浄する必要があったものと専門家筋は見ている。そのいわくつきのMGN/AUBグループがCADIIおよびKDFの顧問として、一挙に国家財政の鍵を握る立場に躍り出た。CADIIに対する見方は当初好意的なものも多かった。長年の懸案でありながら進まなかったキルギス・テレコム、キルギス北配電など基幹産業の民営化が次々実施された。また2010年2月にはAUB・アグロ銀行など国策銀行が半官半民(KDFが50%出資、残り50%民間)で設立された。これらの新入札案件のすべてをマキシム系の地元キルギス企業の参加したコンソーシアムが勝ち取った頃から、CADIIに対する疑問の声がささやかれるようになった。3月に入るとイタリアの司法当局がイタリア・テレコムの入札にからむ不正疑惑でMGNグループに対して逮捕状を出した。MGNは事実無根と反論したが、KDFは即座にMGNの顧問契約を解消した。IMFは2008年12月に金融危機後の対策として1億ドルに及ぶ財政支援プログラムを約束し、数次のレビュー・ミッションを経て2010年3月にはその実施が理事会で承認される見込みとなっていた。国家機関であるKDFの財務顧問であるMGNグループのスキャンダルが報道されると、詳細説明待ちを理由として、IMFはプログラムの実施を棚上げした。同じ週の後半、今度はキルギスの大手携帯オペレーター・メガコムの元株主がバキエフ政府からうけた不当な圧力の首謀者としてCADIIのエリセーエフ次官を批判するモスクワ発の報道が出た。以前から政府が圧力をかけてキルギス国内の優良企業の株を安くマキシム・グループに譲渡させたケースがささやかれていたが、政府高官を名指しした外国報道によって政府に対する人々の不信感は決定的なものとなった。
首班ローザ・オトンバエバと暫定政府の正統性
4月7日の夜に暫定政権が成立すると社民党の党首オトンバエバ(60歳)は首班に指名された。駐英米大使、外相を歴任した南部オシュ出身のオトンバエバは2005年の革命の数ヶ月前に帰国して反アカエフ勢力の指導者となった。革命のあと同年末にはバキエフの批判勢力に回った。2010年3月8日、キルギスタンを支援してきたEBRDなど国際機関に対し、野党側国会議員団の筆頭として女史が送った手紙にはバキエフ政権への要求事項として以下の三項目が盛り込まれていた。
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適正な手続きを経ずに恣意的に設立されたCADIIならびにKDFをはじめとする違法な国家機関を廃止すること。
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大統領の子息と兄弟を政府高官である地位から退任させ、ファミリー政府を排して民主主義国家を作るという大統領自身の2005年の公約を守ること。
§
個人への権力集中の試みは国家を危機的な状況に追いやり、その果てには国家の崩壊、国家主権と発展の見通しの喪失が待っていることを理解すべきこと。
その後ロシアのプーチン首相に続いて、米のクリントン国務長官も電話で暫定政権の支援を表明すると新政権の前途は明るいものと思われたが、一ヶ月以上たった現在も、政権の正統性をめぐって懸念が生じている。2005年の状況と大きく異なるのは、アカエフが出国前に政権を放棄し、憲法の手続きによって、国家の元首としての権限が新たに任命されたバキエフ首相に移行したのに比べ、今回はバキエフ派が多数を占める国会からの支持を期待薄とみた暫定政権が、その成立後すぐさま国会を解散してしまったことである。起草中の新憲法の国民投票が6月に実施され、新憲法にもとずいて国会・大統領選挙が行われる10月までは、暫定政権は事実上の存在でしかない。この理由により国連、世銀など国際機関は暫定政権の事実上の統治権を認め支援を約束しながらも、正式な承認・加盟問題については国際世論の大勢が整うのを待つという姿勢をとっている。
暫定政権を支えるアタンバエフ経済担当兼副総理(54歳)は野党の党首であり、2005年の革命の立役者の一人だ。2007年には短い期間ながらバキエフのもとで首相を務め、2009年の大統領選の候補者だった。サリエフ蔵相(47歳)は独立直後の1991年にキルギス商品取引所を創設しており、ビジネスマンから野党リーダーになった。憲法起草を担当しているテケバエフ(52歳)は2006年に国会議長を辞任すると反バキエフ闘争を指導してきた。検察担当のベクナザロフ(50歳)はオトンバエフとならんで社民党の指導者である。暫定政権に対する幻滅の声が聞こえてきたのは、閣僚級ポスト、各州知事ポストの配分をめぐって政権内部の権力争いが明らかになったことに加え、検察当局によるマキシム系会社のブラック・リスト作成をめぐって、不透明な献金要求があったとの苦情の声がでたことも影響している。これらの事態に対し適切な措置を講じない首班のオトンバエバの指導力を疑問視する見方もでてきた。これら暫定政権の首脳陣が、今回の政変の後で一致団結してオトンバエフ首班を支えていくのか、それともさらなる混迷状態が続くのか、10月の選挙に向けて予断を許さない。
キルギス経済への影響
また今回の動乱とそれに続く国境の閉鎖がキルギスの貿易・商業活動に与える影響が懸念されている。ビシュケクは旧ソ連の水準でいうと驚くほど衣料品、家電、音響、IT製品などが豊富で安い。これは中国、トルコ、マレーシアなどの製品がシルクロードの交差点であるビシュケクを通ってロシア、カザクスタンの大消費地に流れていくためだ。動乱発生の直後に大統領系のナロードニ・スーパーのほぼ全店が襲撃された他に、トルコ系のVEFAセンター、開店したばかりのベータ2号店、ドルドイ・プラザ、キャラバン、ゴイン商城など大手ショピングセンターが略奪された。中国系のゴインはその後で放火された。キルギス系の流通センターZUMなどの場合は関係者側が動員されて、暴徒の動きを制止したので大きな被害は避けられた。スーパー、銀行、両替所など月曜12日から営業を再開したが、政変直後から治安の維持を目的として、陸続きのカザク、中国、ウズベクの国境が一部閉鎖されたままとなっている(5月18日現在)。
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