もう1枚忘れがたい写真があります。撮影は1994年2月。この年の夏から秋にかけてYenikendという水力発電所のリハビリと未完成ダムのプロジェクトで忙しく過ごしていました。この第1号案件は無事に12月に調印の運びとなりました。事件が起きたのは翌年3月でした。第2号案件の準備作業に着手するために豪州のコンサルチームと一緒にバクーに入った数日後のことでした。クーデターを目指す反政府軍と当局の間で激しい未明の攻防戦となりました。この写真の中央に映っているDom Sovietが主戦場。わたしたちのチームが泊まっていたのはその隣にあったHotel Azerbaijanでした。わたしが起きた時にはすでに膠着状態に入っていた模様です。その後の国営TVの放送は治安の維持を呼び掛ける当局のアナウンスだけ。情勢が収まるまで数日かかりました。まだ携帯電話は普及していない時代でした。衛星電話のあるのは丘の上にあった別のホテルだけ。おそるおそる出かけてロンドンの本部と通信しました。道路を警備していた部隊の兵士に厳しい調子で「何処へ行くのか」と誰何されました。この時にわたしの働いていた組織の安全部に第一報を入れてくれたのは当時BBCの日本向けプログラムで放送翻訳の仕事をしていた家人でした。今となっては信じがたいような記憶です。
2020年9月5日土曜日
2020年9月3日木曜日
キルギスの草原 ポケットカメラで残した記録
脱サラして日本を飛び出してから最初の勤務地がウィーンで、その次がロンドンでした。華やかな街で通算8年半ほど暮らしてから12年ほど途上国の暮らしを経験しました。この途上国への移動については「可哀そう。都落ちか」という感じで親戚辺りから受け止められたようですが、本人の気分は逆でした。ロンドンの電力チームの仕事でコーカサスやら中央アジアに行く機会がある度に心が震えるのを感じました。これはそれまでアメリカやヨーロッパの大都市を訪れた時の感激とはまったく違う種類のものでした。その頃は仕事も不慣れで写真を趣味にする余裕はありませんでした。きちんと書き残す時間もないのでとりあえずポケットカメラで印象だけでも残したいと思っていました。そういう1枚です。キルギスの草原。1997年の撮影です。
キルギスの草原と羊たち
わが心のキルギスの草原。1997年の撮影。この2年後の1999年4月に電力チームを離れて、ウズベキスタンのタシケント事務所長になりました。世界遺産とかチムール帝国の歴史という面ではウズベキスタンは素晴らしい国ですが、わたしの中央アジア熱の原点はキルギスの草原と羊たちです。組織の決まりで一か所に駐在する時間には限りがあります。やがて中央アジアを離れてマケドニアの首都スコピエに赴任することになりました。そこでの任期を延長するかどうかという頃でした。ある夕方、ロンドンのベルギー人の大ボスから電話が入りました。「ビシュケクに行く気はないか?」。10年ぶりの憧れの国です。今度は出張ではなく駐在所長として向き合うことが事実上決まった瞬間でした。この時に電話で即答してしまったことを家人からは何度も文句を言われました。
4週間の出張 イスタンブールが中継地
1993年の秋の機構改革の後でチームがスリム化したこともあって1994年に入ると以前よりも中堅バンカーとして仕事を任せられるようになったのはありがたいことでした。どこの職場でも一番下でシニアのお手伝いをするのは勉強にはなりますが、あまり楽しいものではありません。年明けからアゼルバイジャンの責任者になって半年経った頃の夏でした。2週間のバクー出張がそろそろ終わる頃に、ロンドンのボスに報告の電話を入れました。イタリアのコンサルタントチームの皆さんの作業の進捗状況やら、現地側の対応について報告しました。おもむろにボスが言いました。「ところで来週からグルジアに担当チームが入るのだが、君も参加してくれるかな」。一瞬耳を疑いました。いろいろ準備もあるだろうし、どうすんだろう?案件の方は新規参加では準備のしようもないとして、通算一ヵ月のミッションとなると旅支度とかどうしようか?いろいろ頭をよぎることはありましたが、ボスに逆らうという発想はなかったので「わかりました」と答えていました。これは本部で地図を眺めている人の発想としては「せっかくバクーにいるのだから、隣国のトビリシまで回ってもらおうかな」ということだったと思いますが、実際には両国の首都の間を飛行機で飛べるわけでもありません。ましてや車の移動では途中で何が起きるかわからない物騒な時代のことです。結局、飛行機の経由地であるトルコのイスタンブールまで家人に来てもらってスーツケースの中身を入れ替えるという方法をとりました。今となっては懐かしい思い出です。
初めてのアゼルバイジャン出張
1994年2月に初めてカスピ海のほとりにあるアゼルバイジャンの首都バクーを訪れました。年が変わると新たにこの国の電力案件を担当することになったからです。前年の機構改革の後で元々の担当だったトルコ人の女性がカントリー担当チームに配属され、セクター担当チームの一つである電力チームで所管すべきこの案件が宙に浮いたままとなっていました。Yenikendという水力発電所のダムの増強と改修の工事でした。まずはこの案件のスクリーニングに関わったイタリア人コンサルタントのカヴァリさんとロンドンの本部で会ってこれまでの経緯を確認しました。機構改革のあおりを受けて半年以上棚上げされていた案件だったので、まずは現地入りして電力公社や政府関係者に会い、案件の優先順位を確認すると共に、融資の主要な条件となる電力セクター改革についての考え方を打ち合わせることになりました。フライトはイスタンブール経由。国内線用みたいな小さなターミナルで遅延のフライトを待ちました。夜が更けてからようやく出発した飛行機がバクーに到着し、旧ソ連時代のインツーリストのホテルにたどり着いたのは明け方でした。カヴァリさんとは現地で落ち合う予定だったので一人きりです。大きいけれども何だか寂びれたホテルのチェックインカウンターには酔っ払ったおじさんだけ。まわりには取り巻きもいます。英語は通じないし困ったことになったと思いましたが何とか部屋を確保できました。このホテルの窓からの眺めです。アゼルバイジャンとの出会いから、いくつかの案件をリードできたことで、組織におけるわたしのサバイバル生活が何とか動き始めたのでした。
機構改革の嵐 ピンチはチャンス!
1993年の初めに独立後の旧ソ連諸国を支援する組織に入りました。今では高い評価が定着した国際機関ですが、当時は活動対象国と同じくらいの混乱期。1993年夏のトップ交代の後で、秋に大機構改革が実施され職場は大揺れとなりました。わたしが所属していたインフラ部門エネルギーチームも改編。何故かしばらくはAとBの2チームの設立へ。当時の雰囲気からすると人選が絞り切れなかったので妥協案として2つで発足したけれども、競わせたうえで弱いチームが淘汰されるのは明らかでした。各チームとも必死で総動員体制となりました。主力のシニアたちをより進んだ先進地域に割り当てると、まだビジネス環境の厳しいコーカサスが当時はまだ若手だったわたしのところに回ってきました。これは神風でした。中規模以上の案件のプロジェクトリーダーになるというチャンスはめったにないからです。アゼルバイジャンの案件を調印に持込み、グルジアの案件でもサブリーダーを務めました。この2国で継続案件までまとめると、強面のエンジニアたちをまとめる調整手腕が認められて中央アジアもまかされるようになりました。1997年の2月に新たにキルギスの案件を引き継ぐために現地に入りました。長いドライブの休憩で停車した時の1枚です。