2020年9月5日土曜日

未明の攻防戦 滞在中のホテルの横で

1枚の忘れがたい写真がある。撮影は1994年2月。この年の夏から秋にかけてYenikendという水力発電所のリハビリと未完成ダムのプロジェクトで忙しく過ごしていた。この第1号案件は無事に12月に調印の運びとなった。事件が起きたのは翌年3月のこと。第2号案件の準備作業に着手するために豪州のコンサルチームと一緒にバクーに入って数日経っていた。クーデターを目指す反政府軍と当局の間で激しい未明の攻防戦が発生した。この写真の中央に映っているDom Sovietが主戦場。私たちのチームが泊まっていたHotel Azerbaijanはその隣にあった。私が起きた時にはすでに事態は双方がにらみ合う膠着状態に入っていた。その後の国営TVの放送は治安の維持を呼び掛ける当局のアナウンスだけ。情勢が収まるまで数日かかった。まだ携帯電話は普及していない時代だった。衛星電話のあるのは丘の上にあった別のホテルだけ。おそるおそる出かけてロンドンの本部と通信した。道路を警備していた部隊の兵士に厳しい調子で「何処へ行くのか」と誰何された。この時にわたしの働いていた組織の安全部に第一報を入れてくれたのは当時BBCの日本向けプログラムで放送翻訳の仕事をしていた妻だった。今となっては信じがたいような出来事だった。



2020年9月3日木曜日

キルギスの草原 ポケットカメラで残した記録

 脱サラして日本を飛び出してから最初の勤務地がウィーンで、その次がロンドンだった。華やかな街で通算8年半ほど暮らしてから12年ほど途上国の暮らしを経験した。この途上国への移動については「可哀そう。都落ちか」という感じで親戚辺りから受け止められたけれど、本人の気分は逆だった。ロンドンの電力チームの仕事でコーカサスやら中央アジアに行く機会がある度に心が震えるのを感じていたからだ。これはそれまでアメリカやヨーロッパの大都市を訪れた時の感激とはまったく違う種類のものだった。その頃は仕事も不慣れで写真を趣味にする余裕はなかった。きちんと書き残す時間もないのでとりあえずポケットカメラで印象だけでも残したいと思っていた。そういう1枚。1997年に撮影したキルギスの草原。



キルギスの草原と羊たち

 キルギスの草原と羊たちは私の中央アジア熱の原点である。1999年4月に電力チームを離れ、事務所長としてウズベキスタンの首都タシケントに赴任した。ウズベキスタンはサマルカンド、ブハラ、ヒヴァなどの世界遺産とチムール帝国の歴史を持つ素晴らしい国だが、組織の決まりで一か所に駐在する時間には限りがあった。やがて中央アジアを離れてマケドニアの首都スコピエに赴任した。

3年が過ぎた。スコピエでの任期を延長するかどうかという頃のある夕方、ロンドンのベルギー人の大ボスから私の携帯に電話が入った。「ビシュケクに行く気はないか?」。かつて送電線プロジェクトのリーダーとして訪れてから10年が過ぎていたが、ずっと憧れの国だった。今度は出張ではなく駐在所長として向き合うことになった。この時に電話で即答してしまったので家人からは何度も文句を言われた。

1997年に撮影したキルギスの草原。



4週間の出張 イスタンブールが中継地

 1993年の秋の機構改革の後でチームがスリム化したこともあって1994年に入ると以前よりも中堅バンカーとして仕事を任せられるようになったのはありがたいことでした。どこの職場でも一番下でシニアのお手伝いをするのは勉強にはなりますが、あまり楽しいものではありません。年明けからアゼルバイジャンの責任者になって半年経った頃の夏でした。2週間のバクー出張がそろそろ終わる頃に、ロンドンのボスに報告の電話を入れました。イタリアのコンサルタントチームの皆さんの作業の進捗状況やら、現地側の対応について報告しました。おもむろにボスが言いました。「ところで来週からグルジアに担当チームが入るのだが、君も参加してくれるかな」。一瞬耳を疑いました。いろいろ準備もあるだろうし、どうすんだろう?案件の方は新規参加では準備のしようもないとして、通算一ヵ月のミッションとなると旅支度とかどうしようか?いろいろ頭をよぎることはありましたが、ボスに逆らうという発想はなかったので「わかりました」と答えていました。これは本部で地図を眺めている人の発想としては「せっかくバクーにいるのだから、隣国のトビリシまで回ってもらおうかな」ということだったと思いますが、実際には両国の首都の間を飛行機で飛べるわけでもありません。ましてや車の移動では途中で何が起きるかわからない物騒な時代のことです。結局、飛行機の経由地であるトルコのイスタンブールまで家人に来てもらってスーツケースの中身を入れ替えるという方法をとりました。今となっては懐かしい思い出です。



初めてのアゼルバイジャン出張 

1994年2月に初めてカスピ海のほとりにあるアゼルバイジャンの首都バクーを訪れた。年が変わると新たにこの国の電力案件を担当することになった。前年の機構改革の後で元々の担当だったトルコ人の女性がカントリー担当チームに配属され、セクター担当チームの一つである電力チームで所管すべきこの案件が宙に浮いたままとなっていた。Yenikendという水力発電所のダムの増強と改修の工事だった。まずはこの案件のスクリーニングに関わったイタリア人コンサルタントのカヴァリさんとロンドンの本部で会ってこれまでの経緯を確認した。機構改革のあおりを受けて半年以上棚上げされていた案件だった。まずは現地入りして電力公社や政府関係者に会い、案件の優先順位を確認すると共に、融資の主要な条件となる電力セクター改革についての考え方を打ち合わせることになった。

フライトはイスタンブール経由。国内線用みたいな小さなターミナルで遅延のフライトを待った。夜が更けて、ようやく出発した飛行機がバクーに到着し、旧ソ連時代のインツーリスト時代のままのホテルにたどり着いたのは明け方だった。カヴァリさんとは現地で落ち合う予定だったので一人きり。大きいけれども寂びれたホテルのチェックインカウンターには酔っ払った受付担当者。まわりには取り巻きもいた。英語は通じないし困ったことになったと思いながら、何とかチェックインが済み、部屋を確保できた。

写真はのホテルの窓からの眺め。アゼルバイジャンとの出会いから、いくつかの案件をリードできたことで、この組織におけるわたしのサバイバル生活が何とか動き始めた。



機構改革の嵐!

1993年の初めに独立後の旧ソ連諸国を支援する組織で働くことになった。今では高い評価が定着した国際機関だが、当時は活動対象国と同じくらいの混乱期だった。1993年夏のトップ交代の後で、秋に大機構改革が実施され職場は大揺れに揺れた。私が所属していたインフラ部門エネルギーチームも改編された。何故かAとBという2つの電力チームが設立された。当時の雰囲気からすると人選が絞り切れなかったので妥協案として2つで発足したのだろう。競わせたうえで弱いチームが淘汰されるのは明らかだった。

各チームともサバイバルをめざして総動員体制で各チームメンバーの担当を再編成した。主力のシニアたちをより進んだ先進地域に割り当てると、まだビジネス環境の厳しいコーカサスが当時はまだ若手だった私のところに回ってきた。これが新人の私には神風となった。中規模以上の案件のプロジェクトリーダーになるというチャンスはめったにないからだ。1994年の年末にアゼルバイジャンの案件を調印に持込み、グルジアの案件でもサブリーダーを務めた。この2国で継続案件までまとめると、強面のエンジニアたちをまとめる調整手腕が認められて中央アジアもまかされるようになった。1997年の2月には、新たにキルギスの案件を引き継ぐために現地を訪れた。長いドライブの休憩で停車した時の1枚。