2016年6月20日月曜日

河が流れ砂が動くように名前は変わる

パミール高原、ヒンドゥークシ山脈に源を発して、アラル海に南から入るのがアムダリヤ川、天山山脈に源を発してアラル海に東から入るのがシルダリヤ川だ。ウズベキスタンの主要都市であるタシケントもサマルカンドもブハラもこの二つの大河に挟まれたソグディアナという地域に位置している。砂漠と草原の地域で川に挟まれたオアシス地域は戦略的にも通商的に重要だったはずだ。

この地域はペルシャ帝国の時代にはその東端だった。サマルカンドやタジキスタンにはファルシ(ペルシャ語)を話す人が多い。中国との交流が盛んだった時代には「西域」と呼ばれた。オスマン・トルコが勢いを持った時代以降は「トルキスタン」と呼ばれていた。その後は旧ソ連を構成する国々となったので、1991年に独立するまでは世界地図から名前が消えていた地域だ。

キルギス共和国は独立後の1993年に国名を変更して「スタン」を外した。キルギス語の発音で「クルギスタン」という音がクルド人の国「クルディスタン」と紛らわしいことを懸念したものだ。隣のタジキスタンの名前はそのままだが、この国の大統領は名前の語尾から「マノフ」を外して改名している。民族が混在する中央アジアでは、1991年に旧ソ連から独立した後で、自分の名前のロシア風の語尾を出身民族風に変えた人がたくさんいる。

カザクスタンでは2014年の2月に大統領が国名変更を国民に呼びかけて話題になった。カザクはそのままにして中央アジア風の「スタン」をカザク風に変更することを提案したものだ。1997年にカザクの首都が大都市アルマートィから北方のアスタナに移転されたのは、この国の領土の広がり、民族構成が周辺国と異なることをアピールした上で、国としての結束強化を狙ったものだった。資源に恵まれ、外国資本が参入して急速な発展を遂げつつあるこの国は周辺国との違いをアピールしたいのだろう。西側では中央アジア諸国を一括りにして「スタン諸国」という呼び方もあることを考えるとこの提案もなるほどだ。

中央アジアは古代マケドニアのアレキサンダー大王の遠征地だった。サマルカンドのアフロシアブの丘に保存されている壁画にはヨーロッパ風の顔をした男たちの姿が見てとれる。中央アジアには「オクサナ」という名前の女性がたくさんいる。今のアフガニスタンの辺りに位置していたバクトリアと同盟を結んだ大王はバクトリア王の娘を妃に迎えた。この王妃の名前がオクサナである。この名前はロシアにも多い。ヨーロッパ風にするとロクサーヌで、いろいろな物語に登場する。

現在もアレキサンダー大王の末裔たちが住む旧ユーゴのマケドニアとお隣のギリシャは「マケドニア」の国名をめぐって論争を続けている。古代マケドニアはギリシャ第二の港街テサロニケ、旧ユーゴのスコピエ周辺、ブルガリアの南端をまたがる大帝国だった。栄光の歴史をお隣に譲り渡すわけにはいかない。マケドニアの憲法上の国名は「マケドニア」だが、ギリシャの反対で国連での正式名称は「旧ユーゴ・マケドニア共和国」のままだ。旧ユーゴの代わりに適当な形容詞をつける方向で調整が進んでいるそうだ。

2016年6月16日木曜日

西シベリアの油田の町 空港近くの民家で待機した 

西シベリアに石油ガス田リハビリ・プロジェクトの現場があったので、1994年から3年くらい半年に一度くらいのペースで出張する機会があった。その後コーカサス・中央アジアの仕事が忙しくなりロシア・チームに仕事を引き継ぐまでこのプロジェクト・チームの責任者だった。ロンドンからモスクワ経由でノイヤビルスクという空港まで深夜便で飛び、それからグブキンスキーという街まで3時間ほどの朝方のドライブでようやく現場にたどり着いた。
 
このプロジェクトのモニタリングを任されるようになって最初の出張だった。ロンドンからの出発前も仕事を終えての帰り間際もハプニングの連続だった。当時は駆け出しの開発バンカーで本人も頼りなかったのだろうが、本部で2-3人のバンカーのサポートをする秘書がテンプ・スタッフでこちらも頼りにならなくて苦労した。出発の2日前にフライトの切符がノイヤビルスク(11月の街)ではなく、ノボシビルスク(新しい街)になっていることに気がついた時は冷や汗だった。
 
帰りの飛行機が天候不良でキャンセルされて次のフライトを待つまでグブキンスキーの空港近くに2日ほど待機することになった。フランス人の石油掘削のエンジニアや技術支援担当のオランダ人のカウンターパートたちと空港の近所の民家をめぐって、飛行機の出発まで休ませてもらえる部屋はないかと訊ねて歩いた。住民の人たちが親切だったのか、米ドルの威力なのか同行の6人くらいが横になれる宿はすぐ見つかった。それから近所のスーパーに食料の買い出しに行った。パンとチーズと魚の缶詰めビールを調達して酒盛りをしながら話が弾んだ。懐かしい思い出だ。







2016年2月11日木曜日

欧州復興開発銀行(EBRD)での実務経験を振り返って

I.                   EBRD を含むMDBsの設立経緯、特徴等
 
1.  国際金融機関(IFIs, MDBs)の設立経緯と役割
Ø  世銀、IMFは第二次大戦の終結時のブレトン・ウッズ体制下で発足。戦後復興支援や地域の発展、安定に貢献
Ø  第一次世界大戦でドイツが敗戦で疲弊し、その後の孤立的な姿勢が欧州各国への脅威となり第二次世界大戦時につながった。負けた国々戦後処理のケア必要という反省から、敗戦国や植民地等に資金援助を行うことが、戦後体制の安定化と将来の戦争の抑止に重要であるという国際合意が生まれた。
Ø  その他の機関…Regional Banksという位置づけで成立

Ø  開発金融機関=MDBsMultilateral Development Banks
e.g. 世界銀行、アフリカ開発銀行 (AfDB)、アジア開発銀行(ADB)、欧州復興開発銀行(EBRD)、米州開発銀行グループ(IADB)
Ø  国際金融機関=IFIs (International Financial Institutions)
IFIs=国際通貨基金(IMF+  MDBsIMFは間接的に開発に関与)
 
2. EBRDの設立経緯(ユーラシア開発銀行、AIIBの議論を含む
Ø  EBRD冷戦構造終結の戦後処理のため設立した比較的新しいMDB
Ø  冷戦構造崩壊後に、フランスが中心、ドイツがサポートして議論がスタート。アメリカは、新銀行作ることに難色を示した。イギリスに本部を置くことで決着
Ø  ロシア主導でユーラシア開発銀行(本部アルマーティ)がられた時にはEU諸国を巻き込んでの議論にはならなかった。
Ø  AIIBAsian Infrastructure Investment Bank:アジアインフラ投資銀行)の成立経緯の議論(中国が中心、是非をめぐって議論、イギリスが調停役)はEBRD設立の際にどういう議論がなされたのか、対応策はどうしたのかということを考えると議論すべきことが見えてくる。中国はAIIBの設立の理由として増大するアジアのインフラニーズに応えるために既存の組織を補完する必要性を強調。議論の本筋は如何にして新銀行の健全経営を確保するかにあるべき。

3. EBRDの特徴
Ø  世界銀行の組織体系と、イギリス流投資銀行*オペレーションを組み合わせたハイブリッド銀行として設立された
Ø  Development Banking(世銀等)とMerchant Banking商業銀行等)オペレーション違いがある。アメリカの証券取引中心の投資銀行業務と比べ、イギリス投資銀行は大英帝国の植民地経営のためMerchant Banking発達させた(商業ベース、プロジェクトベース)例:「ヴェニスの商人」で英のシェイクスピアが描いた世界
*プロジェクトファイナンス銀行 (プロジェクトファイナンスとは)


4. 活動国と資本金p.6※地図,p.9参照)ページ数はスライドのページを示します
Ø  35か国 活動対象国の数は発足以来、増加し続けてきた。
-          1991   $10 billion(設立時)
-          1990年代後半に $20 billion へと増資。
増資承認の時点で、これ以上の増資はしないことが合意されていた。資本金を循環させ、最終的に発展的に消滅することが目標(対象国の銀行セクターが市場経済の下で回り出したと判断された時点で消滅すべきとされた)
-            2011年 $30 billion へと増資 (アラブの春が起こり、支援地域拡大した)
企業に貸し付けるときの利子はコスト(LIBORリスク(担保の質で変わる)

5. EBRD地域的拡大 (p.10-11参照)
Ø  EU東側陣営の様々な国の加盟により拡大(p.11した過程をEBRDが支援
Ø  モンゴルもともと旧ソ連の影響下にあった国の追加
トルコ…重要なEU加盟候補国として2008年加入
Ø  世界金融危機20089月)の後でEBRDの役割再発見された。
-          旧東側陣営の国々の銀行を西側のNGO商業銀行支援していたが、危機の後で不安定な国々から手を引いた。
-          民間手におえない状況で、世銀やIMF金融支援が期待されたが、政府・中央銀行にしか貸し出せないので、政府・中央銀行地場銀行企業というように、支援の効果が浸透するまで時間がかかる。
-          既存のビジネス関係を既に持っているEBRDがそれらの国の銀行のテコ入れを実施。(EBRDの特色参照)
Ø  アラブの春以降、支援する地域が増加
冷戦終了後の紛争を抱えた国々で民間プロジェクトを進めた実績が評価されEBRD地中海・北アフリカ地域の国々を支援することが要請された。

6. EBRDの特色
Ø  銀行業への信頼が低い地域で直接民間の地場銀行や工場への投融資が可能。(世銀、IMF政府貸し出しのみ。)
Ø  意思決定が公的機関としては迅速例:EUで合意があれば翌週から既存の取引先への対応が可能)
Ø  インフラ融資でも最大15償還期限(民間への融資だとほぼ57)により資金を循環させるサウンド・バンキングが基本で、増資に頼らないことが原則。MDBs増資を続けてきた歴史を持つ
Ø  活動の特色(p.14参照)
Ø  プロジェクトの選考基準(次項参照)
*貸し付け相手国の商業金融機関を通じての二段階借款も可能。
(貸し付けた資金は国内の中小企業や農業部門に貸し出す)

7. プロジェクトの選考基準(p.15参照)
Ø  サウンドバンキング優良案件と担保があるところ以外には貸し出さない
Ø  移行インパクト国やセクターへの市場経済移行を促進する効果があるか(p.14
Ø  アディショナリティ他の銀行の役割に対してadditionalどうか?=EBRDが参加すべきプロジェクトかどうか)有利な条件を持つEBRDが民間銀行をクラウド・アウトすることは許されないた
Ø  環境への配慮(p.16参照)
Ø  民主主義条項*p.17参照)
*2003年のEBRDタシケント総会の準備段階でNGOはこの条項を根拠にしてEBRDのウズベキスタンへの支援を批判。カントリー戦略の見直しにつながった。例えばADBの定款には人権条項がないので2011年のADBタシケント総会では同様の批判はなかった。
*ロシアへの資金が1位から対前年比で大幅減、EBRDEUの対ロ制裁に同調し新規案件を停止。現在の7%は既存のプロジェクト(p.19参照)

8. EBRDの強み (p.20参照)
Ø  Preferred creditor’s status多重債務者破たんした場合、民間銀行より優先的に返済される(政府、公的機関は優先度が高い。これら機関の資本金は加盟国の税金なので保護されるべきであることによる。シンディケーション*をすると民間の参加銀行もこのstatusが適用されるため、西側銀行に人気が高い。)
*シンディケーション(この場合EBRDグループとして保護される
Ø  トリプルA評価 (有利な条件で資金が調達できる

9.  EBRD入行からSenior Bankerまでの経緯
Ø  海外生活の始まり…アメリカに2年間留学(86~88)、公共政策を勉強。また、日本とは違う職業観、人生観に触れ影響を受けた。
Ø  アソシエートエキスパート試験を受け、UNIDO勤務。小さい機関だったこともあり、責任を任されることが多く、1992年のEarth Summitにも関わることができた。
Ø  UNIDOでのEarth Summit対応事務局の経験、電気事業の現場と管理部門での経験などが評価され入行できた。電力事業チームでPrincipal Banker(小規模プロジェクトのリーダー役を担当)を経験し、Senior Banker(重要案件について本部・対外関係個所との折衝を担当)への昇進につながった。

10.  JPOの経験について
小さい職場で仕事をまかされ、実績を積むことができた。ただ予算削減に苦しんでいた組織では恒久任用への切り替えは難しい。国連機関への就職を考える場合には、どの組織を選択するかが重要なポイント。

写真1:ブハラ、ティムール帝国時代の遺跡
写真2:キルギスは親日家が多い。出会うと「我々は兄弟だ」という話が必ず出てくる。肉を食べたい人が天山の麓に残り、魚を食べたい人が東に行き、日本人になった。
写真3:2010年キルギス政変後の国際会議
写真4:キルギスの赤いひなげしの花

II.                質疑応答(抜粋)

Q1: EBRDの中小企業支援ストラテジーについて詳しく教えてください(p.21参照)

A: 開発途上国での銀行経営が難しいのは、経済規模が小さく投融資対象としての地場産業が育っていないことが主な理由である。富の不均衡の緩和、中間層の育成の観点からも中小企業の発展は開発に不可欠だ。一方で銀行の堅実経営の視点からはリスクを取り過ぎることもできない。この状態を打破するためには金融支援と技術協力を連携させる必要がある。例えばJICAはキルギスで一品一村のプログラムを立ち上げ、特産品の作り方を支援、質を高め国際的な販路確保するなどして小規模企業を支援している。このような努力から中規模企業を育成し、金融支援に結び付けていくなどの取組みが考えられる。スイスのSECO(経済省経済事務局)やUSAIDEUの技術支援プログラムも中小企業向けの支援に力を入れている。

中小企業支援の難しさ
Ø  技術支援の限界…ある程度、地元企業の質やマネジメントは向上するがISO等のスタンダードをめざし輸出できるレベルの商品を開発するこ)、技術支援だけでは現状を変革するにいたらないケースも多い。例えば生産されたモノを近隣誰が買うのか(周辺国市場への販路確保)、近代化・効率化のための設備投資が必要だが、そのファイナンスの問題(5~6年のtermで融資できる地元銀行が限られている)がある。
Ø  融資条件の問題‥リスクが高い開発途上国や移行経済国で高リスクの案件に投融資する民間金融機関は少ない。1年以上の貸し付け能力を持つ地場銀行は少ない(グループ内や有力者関係企業の場合は例外)。
Ø  銀行側のコストの問題…地元企業や町工場が必要とする資金は$1 million程度の規模が通例。金融機関にとっては$100 million規模の大きなインフラプロジェクトへの融資を、政府保証でやった方が簡単。小さな案件は数をこなさなければビジネス総額が小さくなる。銀行にとっては大きなプロジェクトも、小さなプロジェクトも用意する手間は一緒。モニタリング等のコストも増大。

中小企業支援とEBRDの方策
Ø  EBRDとしては支援対象国の民主化、中間層の拡大、市場経済移行を促進するために上記の課題を克服したいという方向性がある。
Ø  EBRD2004年、ETCEarly transition countries)イニシアティブでいくつかのハードルをクリアすることで地元中小企業支援を可能にした(p.21参照)。
Ø  通常は$5 million程度が人件費と手間の関係で下限だったが、財務諸表提出の条件緩和や、技術支援で、1プロジェクト$500,000から支援できるようにした。これはMDBsとしては革命的。始めはこの新方針に批判的な見方が多かった。

ETC (早期移行段階国イニシアティブ
Ø  成立の背景…以前は企業の財務状態を確かめるため財務諸表(Financial Statement, Balance Sheet, Cash flow Statement)などを要求しても、地元中小企業の理解不足で満足なものは提出されなかった。(取引先の確認や、商品がマーケットに出ているか等、auditorが行う仕事をbankerたちが部分的に代行する必要があった)。現在は地元各企業も家族や社員を西側のビジネススクールで学ばせているので状況は変わりつつある)。
Ø  財務諸表の条件緩和について…西側の投融資の審査では借主企業の会計監査報告を要求するが、それをある程度ゆるく済ませ、バンキングチームの判断を尊重することになった。これは問題があった時に、バンカーがプロジェクトを推進した責任を取る制度。(小さな案件の場合でも、かなりの会計監査費用がかかることを考えると、この条件緩和は画期的だった)
Ø  ETC基金…Feasibility study等の費用は、借主側負担が通例だが、EBRDのスクリーニングを通ったプロジェクトには、スイスや日本等が支援しての技術協力資金を使うことが可能になった。

EBRDの中小企業支援のインパクト
Ø  ETCイニシアティブを導入し、小さい規模ながら途上国にとっての重要産業で成功例を作ることにより、開発銀行等の「支援は国を通して行うべき」という常識を少しずつ変えることに貢献した。
Ø  地元の有望産業にお金を付けて投資を拡大し、雇用を増やす(Private companyを支援してアナウンスメント効果を狙う)という考え方を開発銀行が実現したところに意義がある。
Ø  小さい国を支援するということはお金がかかるが、成果を出したことにより、最初中央アジア・コーカサスなど10か国でスタートしたものが、バルカン地域などもっと西側の地域でも実施されるようになった。

Q2: 地場の金融機関とのでデマケーションの部分を詳しく教えてください。

 地場の銀行では、3~5年くらいの長期で貸し出すことができる銀行がない場合が多いので競合はあまりないが、新興投資銀行等とぶつかる場合もある。その場合はシンディケーションを組んで協調融資となる。リスクを分散することになるので頻繁に行われている。(例:キルギスのKICB銀行はEBRDの投資先でもあり、協調融資パートナーでもある)

Q3: サハラ以南等で同様の取り組みをしているところはあるのか

 ないように思う。EBRDがヨーロッパ域外のアラブの春の(地中海・北アフリカ)4か国を支援できたのは、旧ソ連域内のグルジアやキルギスなどのポスト・コンフリクトの諸国を支援した実績と、支援を可能にする拠出金、大株主であるEUの要請があったことが大きい。またIFIsの間での調整努力も必要だった。対政府の支援を行ってきたAfDBとの関係ではEBRDが民間企業を支援しても競争にならない。EBRDの活動がアフリカで今後どのように拡大されるかについては上記なようなバリアについてどのような国際的なコンセンサスが生まれるか次第となる。

Q4: 地元の銀行を育てる戦略はどのようになっているのか。

地元のFinancial Institutionsセクターへの貸し出しが、EBRDビジネス総額の5割以上を占めていた時代があった。2ステップの形で地場の銀行から中小企業にお金を融通したケースが多い。1回に$50 millionぐらいで貸し出すので、地場の銀行が参加しやすい。また、地元銀行の育成効果がある。今は、他の産業セクターの地元企業が育ってきて、FIセクターへの支出割合が下がっている(p.18)。EBRD1991年の発足以来、地場の銀行セクターの育成を行ってきた。

Q5: EBRDへの日本からの拠出金が多いが、人的貢献という面ではどうか。また、国際機関で働く中で、日本人としてのアイデンティティはどうなっていくのか

日本の拠出金8.5%。職員数は2800人に増加している。同じ国でも、首都よりも開発の遅れている周辺地域のオフィスを拡大してきたことで近年職員総数が増加している。邦人職員が資本金比率で言えば200人位いなければところ、現在15人程度しかいない。途上国で働いていると、「日本人とは何か」や「日本の近代化」について考える機会が自然に多くなった。夏目漱石、司馬遼太郎などの本を読んだ。昔の自分に比べるともっと日本人らしくなってきたような気がする。自分のコアとして、日本人としての自分を見つめ直すことになるのは当然だ。

この講義が、開発や途上国に関するテーマに興味を持つ参加者の皆さんの好奇心を刺激し、もっと様々なことを自分で調べていくきっかけとなるよう願っている。ブログにもいろいろ書いているのでご一読されたい。

以上