ラピスラズリは日本語で瑠璃と呼ばれる。この美しい石には邪気をはらいインスピレーションを呼ぶ不思議な力があるらしい。最高品質のものはアフガニスタンで採れるそうだが、中央アジアのアンティークの店でも原石とか飾りにしたものをよく見かけた。わが家にもタシケントで買った銀と組み合わせてベルトにしたもの、ビシュケクで買った5つの小石がある。
2011年の春につれあいに大病が見つかった。ロンドンのクリニックでの検診結果「精密検査を要す」という内容の航空便を、ビシュケクで受け取ったつれあいは、数日にわたってパソコンを検索していた。病気について調べる一方、精密検査を受ける東京の病院を選んでいたのだった。「精密検査は少しでも早いほうがいいよ」とビシュケクから送り出した。わたしは次の週に追いかけるつもりだった。隣の国の首都アスタナで開かれた年次総会に出張するタイミングだったし、その帰りにわたしの職場である国際機関の総裁のビシュケク訪問に同行する必要もあった。「精密検査を要す」の意味が、それらすべてを投げ出すほどに差し迫ったものだとまだ理解していなかった。その週の仕事をこなした後で、精密検査の結果を待つのだろうと考えていた。
一人で東京に向かったつれあいは、医師との相談の結果、そのまま数日後に緊急手術を受けることになった。あまりの急展開で、手術に立ち会うことはできなかった。東京に戻って、手術後に執刀医の先生から話を聞いた。手術は成功したが、治療が必要であり、予断を許さない状態であると告げられた。それからしばらくは大きな書店で医師用の本を買い漁り、医師に告げられたことの意味を理解しようと試みた。何かしていないと落ち着かなかった。途上国の生活を直ちに打ち切って、東京での妻の闘病に付き添うことにした。
ロンドンの本部に事情を説明すると、わたしが仕事のために緊急手術に立ち会えなかったことをとても気にしてくれた。結果論とはいえ、つれあいが生死の境を彷徨った手術に立ち会わなかったのはやはり残念だった。職場の幹部と人事部からは「必要なだけ日本に滞在して良い。その先のことはそれから相談だ」という指示をもらった。飯田橋の病院の近くの宿から、入院しているつれあいを見舞った。7月になって、いったんビシュケクに借家の整理と荷作りのために戻った。東京の病院にいるつれあいに電話をして何か持ってきてほしいものがないかと確認すると「どうせ死ぬかも知れないから何も要らない、ラピスラズリの小石だけは持ってきてほしい」と言った。なにか感じるものがあったのだろう。
その言葉を真に受けて、ウズベキスタン、マケドニア、キルギスと連続12年の途上国生活で集めたものをかなり処分した。タシケントからスコピエへの引っ越し荷物が多すぎて困った経験があったからだ。日本に帰るとなれば置く場所もないことになるだろうと思ったこともある。引っ越しの準備を整えて、東京の病院に戻ってその旨をつれあいに報告しても特に反応はなかった。ビシュケクで一般公開のガレージセールで処分品を売ろうとしてあちこちにメールを流すと、職場の人たちが形見分けみたいなものだから自分たちにまず買わせてほしいと言う。了解すると、ガレージセールにかけるまでもなく、ほとんどのものが売却済みとなった。
つれあいが生死の境を彷徨った手術の日から、今日でちょうど4年経った。見事な手術のおかげで妻は元気にしている。時折り「あれも無いし、これも無いけれど、どうしたかしら?」と言い出す。心の中では「言われた通り処分したよ」と言いそうになる。ある時「病人で気が弱くなっただけなのに、本当に処分しちゃったの?」と言われて以来、この話がぶり返された時は知らん顔をすることに決めている。今はわたしがロンドンで暮らし、つれあいは日本とロンドンを行き来している。今でも元気でいてくれることがありがたい。
2011年の春につれあいに大病が見つかった。ロンドンのクリニックでの検診結果「精密検査を要す」という内容の航空便を、ビシュケクで受け取ったつれあいは、数日にわたってパソコンを検索していた。病気について調べる一方、精密検査を受ける東京の病院を選んでいたのだった。「精密検査は少しでも早いほうがいいよ」とビシュケクから送り出した。わたしは次の週に追いかけるつもりだった。隣の国の首都アスタナで開かれた年次総会に出張するタイミングだったし、その帰りにわたしの職場である国際機関の総裁のビシュケク訪問に同行する必要もあった。「精密検査を要す」の意味が、それらすべてを投げ出すほどに差し迫ったものだとまだ理解していなかった。その週の仕事をこなした後で、精密検査の結果を待つのだろうと考えていた。
一人で東京に向かったつれあいは、医師との相談の結果、そのまま数日後に緊急手術を受けることになった。あまりの急展開で、手術に立ち会うことはできなかった。東京に戻って、手術後に執刀医の先生から話を聞いた。手術は成功したが、治療が必要であり、予断を許さない状態であると告げられた。それからしばらくは大きな書店で医師用の本を買い漁り、医師に告げられたことの意味を理解しようと試みた。何かしていないと落ち着かなかった。途上国の生活を直ちに打ち切って、東京での妻の闘病に付き添うことにした。
ロンドンの本部に事情を説明すると、わたしが仕事のために緊急手術に立ち会えなかったことをとても気にしてくれた。結果論とはいえ、つれあいが生死の境を彷徨った手術に立ち会わなかったのはやはり残念だった。職場の幹部と人事部からは「必要なだけ日本に滞在して良い。その先のことはそれから相談だ」という指示をもらった。飯田橋の病院の近くの宿から、入院しているつれあいを見舞った。7月になって、いったんビシュケクに借家の整理と荷作りのために戻った。東京の病院にいるつれあいに電話をして何か持ってきてほしいものがないかと確認すると「どうせ死ぬかも知れないから何も要らない、ラピスラズリの小石だけは持ってきてほしい」と言った。なにか感じるものがあったのだろう。
その言葉を真に受けて、ウズベキスタン、マケドニア、キルギスと連続12年の途上国生活で集めたものをかなり処分した。タシケントからスコピエへの引っ越し荷物が多すぎて困った経験があったからだ。日本に帰るとなれば置く場所もないことになるだろうと思ったこともある。引っ越しの準備を整えて、東京の病院に戻ってその旨をつれあいに報告しても特に反応はなかった。ビシュケクで一般公開のガレージセールで処分品を売ろうとしてあちこちにメールを流すと、職場の人たちが形見分けみたいなものだから自分たちにまず買わせてほしいと言う。了解すると、ガレージセールにかけるまでもなく、ほとんどのものが売却済みとなった。
つれあいが生死の境を彷徨った手術の日から、今日でちょうど4年経った。見事な手術のおかげで妻は元気にしている。時折り「あれも無いし、これも無いけれど、どうしたかしら?」と言い出す。心の中では「言われた通り処分したよ」と言いそうになる。ある時「病人で気が弱くなっただけなのに、本当に処分しちゃったの?」と言われて以来、この話がぶり返された時は知らん顔をすることに決めている。今はわたしがロンドンで暮らし、つれあいは日本とロンドンを行き来している。今でも元気でいてくれることがありがたい。
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